経験の記憶
ダイニングテーブル&椅子の傷
ここで暮らした、という証
朝ごはん、昼ごはん、おやつ、勉強、家事、毎日使うダイニングテーブルと椅子。家の中の居場所って、不思議なものでいつの間にかそれぞれの場所が決まっていて、家族それぞれの位置って長く不動だったりする。
ダイニングテーブルは特にそれが決まりやすい。例えば、お父さんの場所、お母さんの場所、お兄ちゃんの場所、妹の場所。10年〜20年くらい経って、家族の中でも、特に子どもたちが独立して巣立っていったりすると、少しその場所に変化が起きて、お兄ちゃんの場所に妹が座るようになったり、家族の中でも時間差が出てきたり。
自分が使っていた場所には、自分のつけた傷やシミがつく。飲み物をこぼした、何かをぶつけた、鉛筆で書いてしまった、などなど、それぞれの場所にそれぞれの暮らしの証がつくわけです。ひとつのテーブルの中でも、それぞれの場所の天板の表情は変わる。様々な出来事とともに、人が一人動けば、どこかにぶつかりもするし、そこに跡がついたりするのは当たり前のこと。
その時につく傷が、よく見えるか、嫌なものに見えるか。基本的に、自然のものでできているものはそこには細胞があって、表面がもともと均一なものではないから、傷やシミだけが目立ったりすることなく、自然と「生活の出来事=傷やシミ」が馴染んでいくのです。
完全に消そうと思えば、プロにメンテナンスしてもらうこともできますが、記憶の家のダイニングテーブルについて無垢の木でできているものを誂えているのは、生活の傷やシミを愛おしいものと捉え、そしてそれに向き合い、家族の手で手入れをしていくことができるものだからです。木はもともと雨風や風雪に吹かれたり、陽の光を浴びて、穏やかな季節も厳しい季節も、自然の中で生きてきたものです。そこに人間の喜怒哀楽、生活の跡が足されることで、暮らしの道具としてこの世に存在する意味が生まれます。
時折、メンテナンスを家族でする。オイルを塗って保護したりツヤを出したり手で撫でたりする。自分の場所は自分で手入れをする。そうやって手をかけて使うと、ものを大切にする方法が知恵として得ることができ、何十年かけて唯一無二の表情を作り出す「家族のテーブル」となっていくのです。